ニューヨーク駐在の時代(その1)
かなり昔の話だが、私のニューヨーク駐在時代の話を思い出しながら書いてみたい。
ニューヨークに駐在したのは、カナダのモントリオールにいた6ヶ月を含めて、3年余りであったが、今思い起こせば、数々の経験をし、色々な方々と出会い、とても3年とは思えない貴重なものであった。
私が富士通のニューヨーク駐在員として赴任したのは1967年の2月である。
当時は羽田空港から、大勢の方々に「万歳」で送られて出発した。
寒いニューヨークに着いて数日滞在した後、息つく暇もなく、カナダのモントリオールに飛んだ。・・・と書くと旅なれた雰囲気であるが、当時は、一人で外国を旅したこともなく、何度も何度も、便名と出発時間、ゲートを確認して,まったく余裕なく、落ち着きのない初めての一人旅であった。
2月のモントリオールはニューヨークよりさらに寒く,町を流れるローレンス河は全面凍り付いていた。
ローレンス河の中洲でその年、開催される万博「EXPO’67」の日本館に富士通の230-20というコンピュータが展示される予定であった。
私の任務はこの展示の準備と期間中の面倒を見ることであった。
ローレンス河は五大湖から流れ出る大河で、流量が豊富で、流れも急であるが、春になるとガチガチに凍った氷も解けて、上流から無数の小さな氷山が河一杯に何日も何日も流れてくる眺めは壮観であった。
当時の富士通の最新鋭機である230-20を日本館の真ん中に展示したのであるが、その準備にはたいへん苦労することになる。
今考えると、230-20はノートパソコンより能力はないが、とにかく大きかった。
CPU本体はもちろん、磁気テープ装置、磁気ドラム装置、ラインプリンタ装置など周辺機装置が何しろ大きかった。
日本から太平洋周りの船便で送られてきた230-20は、当時の梱包技術が十分でなかったせいか、本体のコンソールが大きく曲がってしまっており、設置して動作させるまでにたいへん時間がかかった。
川崎工場から来た技術者のがんばりで開幕の3日前にようやく動作した。
いよいよ展示のデモソフトを動かしてみる。
展示の目玉のデモソフトは当時としては革新的な英日翻訳である。
お客様がタイプライタから英語の単語や文章を入れると、日本語に翻訳して音声応答装置で結果を声で答えるというものである。
実際デモソフトを動かしてみると、全然動かない。
動かないはずである。
あとで聞いたところ、230-20が船便のため、一ヶ月半ぐらい早く日本から発送され、このデモソフトを開発した研究所のチームがデバッグをするための磁気ドラム装置や音声応答装置がなく、最終確認はされていないとのことであった。
未完成のデモソフトが送られていたのである。
デモソフトのプログラムが打ち出されたアッセンブルシートがあるだけである。
私は230-20のコンソールの前で3日間、ほとんど寝ずにがんばって10数個のバグを見つけて、開幕の前日の夜にようやくデモソフトを動かすことができた。
滑り込みセーフである。
不思議といつも前の日の夜に完成するものである。
「やったぜ。」と本社にその旨、電報で知らせた。(当時、通常の通信手段は電報であった。)
ところが、「なぜ寸前まで報告しない。」とすごく文句を言われた。
唯一人、ソフトのわかる本人が3日間懸命にデバッグしていたのであるから報告できるわけがない。
どうもそれ以来、私は報告するということが、苦手になったような気がする。
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